南の島から分析中 〜 8歳から不登校 〜 @沖縄

息子は8歳のある日、学校へ行くのをやめた

価値観が違う

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私が、自分と他人の価値観が違う、という感覚がわかったのはここ最近だったりします。

 

今まで自分自身が抱えてきた"生きづらさ"は、

自分の感覚を他人の感覚とどうにか合わせようと努力してしまったことが、そもそもの原因なんじゃないかと分析しています。

 

生きづらさも本当に人それぞれ。

ここで言う生きづらさとは、自分はダメな所しかない、自分がどんな事をするのが好きなのかわからない、そして、生きるのをやめたくなる気持ち、と言えるかもしれまん。

 

価値観が違うというごくごく当たり前の事を教えてくれたのは、むーちゃんでした。

 

むーちゃんにとっての"良い天気"は、曇り、雨、寒い日。

むーちゃんはとても暑がりで汗をかくのが嫌いだから。

私にとっての"良い天気"は、晴れた日。

無性に気持ちいいから。

 

むーちゃんにとって、みんなと一緒に決められた予定に取り組む事は苦痛。

むーちゃんは最終決定を自分ですることに価値を置いているから。

私は引かれたレールの上をガタゴト移動するのが楽。今、レールから外れていっている自分が怖くてプルプルしている。

私は常識や周りの人の目を気にして生きる事に価値を置いていたから。

 

小さな事から人生観まで、違う価値観を持つむーちゃん。

 

むーちゃんと話していると、人はそれぞれ価値観が違っていて当たり前なんだなぁとしみじみ感じます。

 

正解なんてないし、間違いすらもない世界に私たちは存在している事に気付かされます。

 

目の前にいる人は、自分とは価値観が違うという当然の事を考えずに生きるというのは凄く楽かもしれません。

脳みそを麻痺させて過ごせます。

一つ一つの言葉の意味などを考えずに済むし、

"みんな同じだよね"という暗黙の了解や"常識だよね"があると、とても効率が良い。

 

特に昭和の戦後の時代には、経済成長の為にも"効率"が非常に重要だったんだろうなと思います。

 

きっと、平成の時代もその延長線上で何となく上手く社会が回せたんじゃないかと思います。

 

でも、今は情報過多で、個人単位で自分の感性を簡単に世界中に表明できる時代。

 

暗黙の了解とはかけ離れた、沢山の感性の中で育つのが当たり前の世代が育ちつつあります。

 

そして、コロナでこれまでの社会通念が崩されつつある…

 

時代が大きく変わっている中、

今までの価値観だけで人と接したり

今までのシステム( 枠 )だけで集団をまとめるのはとても困難になってきていると感じます。

 

何だか壮大な話しに広がってしまったけれども、

 

不登校のむーちゃんと過ごすことで

自分が人として未熟であったことに気付かされます。

 

悩みもがきながらも、

変容していける人でありたいです。