南の島から分析中 〜 8歳から不登校 〜 @沖縄

息子は8歳のある日、学校へ行くのをやめた

何に焦点を当てるのか

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ここ数日、晴天であたたかい日が続いている。

 

最&高!

 

むーちゃんと久々に遠出した。

結局、沖縄南部を一周。笑

 

最初訪れたのは湧水が出る自然豊かな場所。

むーちゃんの苦手な虫やら何やらがいる。笑

 

そこにいく途中、前面に海が広がる絶景もあり、これは車内からも十分観ることが可能。

 

車から降りられなくてもいいから、できる所まででいいからとりあえず行ってみた。

 

車内から味わえる絶景ポイントでは、うわ〜きれい!うわ〜こわ〜い!と絶賛。

 

湧水の場所に向かう遊歩道、ちょろちょろと湧水の音が滴る音が聞こえて若干テンション上がり、目の前に湧水が流れる場所に着いて、

 

きれい!の絶賛の声。

 

しかし、その後は、案の定、

虫が虫が虫が虫が虫が

虫虫虫虫虫。

 

頭の中、虫で支配されるむーちゃん。

 

湧水に触ってみたい気持ちよりも

虫が嫌だという気持ちが勝り、車内へ戻った。

 

大切なのは、実際にトライしてみた後、本人と対話することだと感じる。

 

今はこれでいいと思うし、

このまま嫌な事に焦点を当て続ける生き方もまた1つの選択肢。

 

虫が嫌だ!に焦点を当てているね、と伝える。

その一方で、美しい風景や、湧水の綺麗さ、その時その場所でしか体感できない事に焦点を当てる事もできるね。と伝える。

 

(私の課題はそれを淡々と客観性を持って伝える技術)

 

私ができる事は、

何に焦点を当てているかを分析するのを手伝う事。

 

そして、こんな所に焦点を当てるのはどうだろうか?と仮説をいくつか用意すること。

 

どの仮説を選び、実証していくかはむーちゃん次第。

 

人を育てるということは、

何かを教え導いたり、レールをひいたりコントロールする事でもなく、

 

あなたは何に焦点を当てて生きたいのか、それを側でただただ問い続ける事に尽きるのではないかと感じる今日この頃である。

 

あとはその人に任せるくらいしかできない。

 

人を変える事はできないし

コントロールすることもできない。

 

価値観が違う

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私が、自分と他人の価値観が違う、という感覚がわかったのはここ最近だったりします。

 

今まで自分自身が抱えてきた"生きづらさ"は、

自分の感覚を他人の感覚とどうにか合わせようと努力してしまったことが、そもそもの原因なんじゃないかと分析しています。

 

生きづらさも本当に人それぞれ。

ここで言う生きづらさとは、自分はダメな所しかない、自分がどんな事をするのが好きなのかわからない、そして、生きるのをやめたくなる気持ち、と言えるかもしれまん。

 

価値観が違うというごくごく当たり前の事を教えてくれたのは、むーちゃんでした。

 

むーちゃんにとっての"良い天気"は、曇り、雨、寒い日。

むーちゃんはとても暑がりで汗をかくのが嫌いだから。

私にとっての"良い天気"は、晴れた日。

無性に気持ちいいから。

 

むーちゃんにとって、みんなと一緒に決められた予定に取り組む事は苦痛。

むーちゃんは最終決定を自分ですることに価値を置いているから。

私は引かれたレールの上をガタゴト移動するのが楽。今、レールから外れていっている自分が怖くてプルプルしている。

私は常識や周りの人の目を気にして生きる事に価値を置いていたから。

 

小さな事から人生観まで、違う価値観を持つむーちゃん。

 

むーちゃんと話していると、人はそれぞれ価値観が違っていて当たり前なんだなぁとしみじみ感じます。

 

正解なんてないし、間違いすらもない世界に私たちは存在している事に気付かされます。

 

目の前にいる人は、自分とは価値観が違うという当然の事を考えずに生きるというのは凄く楽かもしれません。

脳みそを麻痺させて過ごせます。

一つ一つの言葉の意味などを考えずに済むし、

"みんな同じだよね"という暗黙の了解や"常識だよね"があると、とても効率が良い。

 

特に昭和の戦後の時代には、経済成長の為にも"効率"が非常に重要だったんだろうなと思います。

 

きっと、平成の時代もその延長線上で何となく上手く社会が回せたんじゃないかと思います。

 

でも、今は情報過多で、個人単位で自分の感性を簡単に世界中に表明できる時代。

 

暗黙の了解とはかけ離れた、沢山の感性の中で育つのが当たり前の世代が育ちつつあります。

 

そして、コロナでこれまでの社会通念が崩されつつある…

 

時代が大きく変わっている中、

今までの価値観だけで人と接したり

今までのシステム( 枠 )だけで集団をまとめるのはとても困難になってきていると感じます。

 

何だか壮大な話しに広がってしまったけれども、

 

不登校のむーちゃんと過ごすことで

自分が人として未熟であったことに気付かされます。

 

悩みもがきながらも、

変容していける人でありたいです。

 

2021年に

息子、むーちゃんが学校に行くのをやめたのは約1年前の2021年年始でした。

 

小2のむーちゃん

 

ある日を境に普通学級に入れなくなり

保健室でカーテンに隠れて耐えたり

少人数の学級で衝立で人目を避けて何とか耐えて

 

毎日2人で家で泣き

外に出たら涙こらえて耐えてきたけど

 

そこまで追い詰めて毎日むーちゃんを送り出す私の心ももうダメだーってなり、

 

ある日学校に行くのをやめることにしました。

 

いつもの様に、校門で出迎えてくれた養護の先生に、一言、

 

しばらく学校には行きません

 

と言い残し、私たち親子は学校からフェードアウトしました。

 

2年生になって、沢山の沢山の沢山の葛藤と不安、話しを聞いてもらえない苦しさの連続でした。

 

今ならわかります、

私が先生や教育委員会を敵視していたし

現状を誰かのせいにしたかったし

誠実に訴えればみんなが分かってくれ良い方向に変わるはずという幻想を抱いていたんだって。

 

あの時の私には必死に正論で学校や教育委員会に立ち向かってズタボロになるしかできなかった。

 

でも、ズタボロになって、ズタボロになって、何度もズタボロになっていく中で気づくことも増えてきました。

 

そんな事を分析しながら書き記してみようと思います。